はっ!展 作家

■展名:はっ!展

■期間:201251()56()

■時間:11:0019:00

■休み:会期中なし 

■会場:Fukkodo Gallery 復古堂ギャラリー 
810-0001 福岡市中央区天神2-9-213 復古堂B1 
TEL 092-751-7961  

作家武田納穂、原田智未、平田万葉、廣門愛由、藤村千里、松本陵、毛利美穂、渡辺伊都乃 
■内容:『はっ!展』とは、仲の良い者同士で集まったグループ展でもなければ、作風に共通点を見いだされて集められたグループ展でもありません。ただ一つ、プロの作家になるという強い意志を持っていることを条件に集まった九州産業大学在学・卒業生8人による展覧会です。
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以下、作家紹介↓↓

毛利美穂(Miho Mouri)

今回展示している「悶面(もんも)」は、自分自身の表面性と内面性を表現した自画像である。この作品では、人物の口から植物のフウセンカズラが出る様を描き、それが成長して実をつけ、枯れるまでの時間経過を表すことで、自分の言いたくても言えなかった言葉や、言って後悔した言葉、伝えたい言葉などを表現している。

このように「悶面」は、一枚の絵の中に人物と植物を組み合わせることによって表現を追求してきたが、今回、小作品では植物のみをピックアップし、「野菜の花(白菜)」を制作することにした。

ある農家の畑に売り物にならず放置されたままの白菜があったが、それが実に生き生きとした菜の花のような黄色い花を咲かせていた。普段、スーパーマーケットなどしか白菜を目にしたことのなかった私にとって、それは不思議な造形をしており、魅力を感じたのだった。花を咲かせた白菜の姿に、これまで成長の一過程しか見ていなかったのだと気付かされ、それはまるで仲の良い友人の新たな部分を知った時のような嬉しさを感じた。このような理由から私は白菜を描くことにした。

「野菜の花(白菜)」は、植物のみを描いているのだが、制作にあたると、植物に人とのつながりを感じ、これから人物の発する内面性や思いなどを表現するとき、より意味のある制作につながるだろうと実感している。

■武田納穂(Naho Takeda)

私にとって描いたり作ったりすることは、何かを言いたいときに言葉を発することと似ています。私は人と話したり自分の考えを人に伝えることは苦手なので、絵を描いたりモノを作ったりする理由は、少し前までは時間つぶしの独り言だったのかもしれません。けれど、今までにいろんな素敵な人との出会い、人と時間を共有することが少しずつ心地よく感じるようになりました。他者を意識するようになってからは、作品が独り言ではいけないと思いました。なので、今は作品を作ることで自分と向き合うと同時に、自分が人にどう見られるかを意識し作品を通して人とコミュニケーションをとりたいと思っています。

作品のテーマは矛盾や相反するものの混在する感情や感覚なのですが、私は自分の内面的なものを表現するというよりも、作品の視覚的な色や形を通して見てくれる人と言葉をかわせたらいいなと思っています。テーマを伝えたいとはあまり思っていません。作品を制作し終わって、作品が誰かの目に触れるときは私の感じ方は私の感じ方としてどこかに置いといて、見てくれる人には自由に感じてもらい、見た時の気持ちによって様々な解釈できるような作品を作りたいと思っています。

松本 稜(Ryo Matsumoto)

制作における「一貫したコンセプト」というものは常に考えないようにしている。というのも現代に則した作品を生み出すにあたって、混沌とした日本にどっぷり浸かっている僕たちに「一貫したコンセプト」はただの足枷にしか過ぎないと考えているからだ。それは僕たちの生まれた世代、1990年というものが半ば一方的かつ強制的に植えつけた思考であると言ってもいいだろう。

生まれ出た時よりバブルが崩壊し、日本全体が諦めムードに包まれるなかスクスクと育ち、人格が形成される次期に「ゆとり世代」というレッテルをはられた世代である。もちろんそこで得た怠慢と知識面のコンプレックスは確実に僕の制作態度に反映されている。馬鹿っぽいモチーフの組み合わせ、誤謬だらけの題材、浅はかさ。しかしこれはすべて「ゆとり世代」としての等身大のネガポジ反転で、僕の生きてきた時代そのものを過剰転化したものである。

今回の展覧会では、メンバー唯一の男いうこともあって、なにか「男らしいモノ」を提供したいと考えていたが、僕がドシッとかまえた男らしさを表現するに役者不足ということは重々承知なので、逆に単細胞でまっすぐに馬鹿な男らしさを提供しようと意気込んでいる。

渡辺伊都乃(Itono Watanabe)

私は、自分のことを上手く言葉や表情で表現できません。でも、本当に言葉や表情など人間の表面を覆っているものだけが、その人をすべて表していることはなく、もっと違うところにその人の本質が隠されていると感じています。その本質を探るため制作しています。

日頃内臓や骨といったものをモチーフとして使っているのは、前にも述べたように内部に本質があり、内臓という形をかりて制作することで、普段体の外からは見えない神秘性や見えないからこそ、触れてみたいという感情が、人の目を本質へと導くことができるとかんじ、このモチーフを使って制作しています。内臓や骨は一般的にグロテスクに感じるものかもしれませんが、私はそこに美しさを見出しています。なぜかというと、進化のなかで、環境にあわせ造られてきた骨や内臓、細胞は構造が美しく、生命として強固に成り立たっています。それをわざと崩すことによって、人間の脆さや危うさ、人間への威負などを表現したいと考えています。

人間の本質に目を向けて、また作品を見る人たちが感じとれる作品を作りたいです。

平田万葉(Maha Hirata)

陶芸は土と火が全てであり、またこの2つにより大部分は成り立っています。魂を込め、粘土を捏ねくりまわしたとしても、火の力に委ねた時点で作り手の努力は終了なのです。窯の前に立ち、神頼みをすることなど、陶芸以外ではありえないことでしょう。

これは、他の芸術とは異なります。作り手を離れ、人に渡り、年月が経つことで初めて味わいが出てくるのです。こうして陶芸は、“100%”の作品に近づきます。このため、陶芸は自己主義を突き通すことが中々できないのです。しかしながら、作品を窯から出すときは、まるで生まれた子供に初めて対面したかのような気持ちになります。これは、陶芸だけの特異性でもあります。しかし、この“特異性”を持ちながらも、伝統工芸と呼ばれるものには、嫌な固定観念が必ず付きまといます。特に陶芸は、これが強いように思えます。

芸術を含め、国や宗教・人種など個人が属する枠組みは、自分自身や他者を理解する上で、手助けになると同時に、“壁”にもなっているのではないでしょうか。そうした中で、芸術においても越えられない壁が内在しているような気がします。自らの作品傾向が、陶芸をベースとしつつも宗教的・彫刻的…尚且つ、インスタレーション化させ、世界へと展開しているのはこの思いがあるからなのです。

そうして今日もまた、思考を張り巡らせ、ロクロの前に私は座っているのです。

廣門愛由(Ayu Hirokado) 

大学の4年間は模索の日々であり、自分の作品のことや、絵のことが分からなくなることがあり、それは今でも時々悩みます。しかし、私は絵を描くことが好きなのです。自分なりに考えてみると、私はその時の気持ちや、日常の中で忘れたくないことを作品にしていることに気がつきました。

作品「混沌」、「chameleon」では、当時の自分自身の心情が深く関わっています。不安や迷いが絡みつく中にも希望があり、自分の中にはあらゆる気持ちが混沌としています。誰しもがそれぞれ持っている、日常で生まれる不安や迷い、悩み事。その中にそっと差し込んでいる希望の光を見つめた絵を描きたいと思い、制作しました。

また、人は様々な感情を持ちますが、その一部には、どうしても言葉にできない気持ちや、伝えられず消えていく気持ちなどがあります。そんな複雑な気持ちを含め、日常の中で生まれる気持ちを、色や模様として自分なりに表現してみました。表現するにあたって、方解末や岩絵具によりマチエールやキラキラとした表情を出しました。

大学を卒業し、社会人となった今でも不安や悩みは尽きませんが、もう一度、自分の作品と向き合い、模索をし、新たなスタートをきりたいと考えています。

原田智未(Tomomi Harada) 

意思や念といったヒトやモノから生み出されるエネルギー=心の発露をテーマとして自己の深層や矛盾にアプローチする。あらゆる生命体、自然現象、無機物、すなわち万物。心=思考/感情はそれらの対象にヒトが関わり合った結果生じるものと考える。対象があって初めてヒトは心を持ち、人間となるのだろう。

今回の展示作品には人体が多く登場している。どうにも私は作品の中で人体を配置してしまう。人の体は魅力的で興味が尽きない。体の線のまろみや肉のやわらかさ、筋肉や骨の量感、硬さ、美しく均整のとれた体型、個々それぞれに歪んだ決して理想的ではない体格。赤赤した血液の生命感、朽ちゆく脆さ。それらを愛おしくさえ感じる。しかし、自意識を持った一己の人間を描くことはあまりない気がする。事象を暗示する擬人化された記号として、あるいは主観の象徴として絵の中に人体は存在している。

人は自身の思考や感情を伴い主観をもって対象を認識する。すなわちヒトは心を通してモノを見ている。目を通してモノの輪郭を知り、心を通してそのモノを理解する。事象を自身の中で消化し再構成し絵画とするとき、私が人体を象徴的に絵の中に組み込み表現することは必然であるといえる。


藤村千里(Chisato Fujimura 

私は人に“気づいてもらう”ことに強い執着をもっています。私が自身を表現するために選んだ「絵を描く」という手段は私にとって個性のありのままを表現できる最大の術です。けれど、誰かに気づいてもらわなければ何の意味もないと思っています。“おもしろい”や“なんだこれは”など、何でも良いから他人の感覚や精神に作用できるような絵を描きたくて仕方ないのです。

何を描いたらいいのか、何が描きたいのか、そもそも描いてはいけないものなんてあるのか、模索の結果みつけた題材がギャンブルでした。私が扱うのはギャンブルの中でも主にパチンコです。

私の家族、親類はもちろん、自身も遺伝のようにパチンコを好きになり、幼少の頃からパチンコ屋は目にも感覚にも馴染んだものでした。パチンコやギャンブルを好まない人ももちろんいると思いますが、ギャンブルが感覚的にだけでなく脳に直接影響を与えることは事実です。安易かもしれませんが、そんなストレートパンチングなものを題材にすれば必ず気づいてくれる人がいるだろうと思ったのです。

私は気づいてもらうために描いています。